ヨハネ6章
6:1 その後、イエスはガリラヤの湖、すなわち、ティベリアの湖の向こう岸に行かれた。
6:2 大勢の群衆がイエスについて行った。イエスが病人たちになさっていたしるしを見たからであった。
6:3 イエスは山に登り、弟子たちとともにそこに座られた。
6:4 ユダヤ人の祭りである過越が近づいていた。
6:5 イエスは目を上げて、大勢の群衆がご自分の方に来るのを見て、ピリポに言われた。「どこからパンを買って来て、この人たちに食べさせようか。」
6:6 イエスがこう言われたのは、ピリポを試すためであり、ご自分が何をしようとしているのかを、知っておられた。
イエス様は、御自分が何をしようとしているのかを、知っておられました。ですから、パンの話を出されたのです。
大勢の群衆がついてきました。その上、山に登りました。これは、初めからの計画なのです。
イエス様は、ピリポを試されました。その質問は、「どこからパンを買ってきて食べさせようか。」でした。それは、明らかに非常に難しいと見える質問です。「どこから」と言われましたが、近くに大きなパン屋があるわけではありません。それから、ピリポの心配のように、お金がありません。二百デナリもあれば、弟子たちは、普段からそうひもじくはならなかったのです。それに、この場所で食事をするために運んでくることができるかという問題もあります。
6:7 ピリポはイエスに答えた。「一人ひとりが少しずつ取るにしても、二百デナリのパンでは足りません。」
ピリポは、直面している困難をイエス様に告げました。イエス様は、ピリポを試したのです。パンを手に入れることが困難であることを知っていて質問しているのです。ですから、ピリポの答えは、見当違いの思慮のないものになります。いわば。間が抜けているのです。イエス様の期待とは程遠いものです。 それが困難であればあるほど、その解決は、神以外にないのです。しかも、イエス様は、ご自分からパンの話を出されて、パンを与えることを計画していたことが分かります。ですから、弟子たちがイエス様にパンを与えることを求めても、見当違いではないのです。
6:8 弟子の一人、シモン・ペテロの兄弟アンデレがイエスに言った。
6:9 「ここに、大麦のパン五つと、魚二匹を持っている少年がいます。でも、こんなに大勢の人々では、それが何になるでしょう。」
アンデレは、少年のパンと魚を示しました。これがあれば、なんとかなりますという考えではありません。それは、このようなものがあってもなんの役にも立ちませんと、イエス様にわからせようとしたのです。ですから、それもわかっているイエス様に対して、失礼な答えであり、間の抜けたものです。
6:10 イエスは言われた。「人々を座らせなさい。」その場所には草がたくさんあったので、男たちは座った。その数はおよそ五千人であった。
座ったのは、男たちです。女たちは、座りませんでした。このときだけ女たちが全くいなかったということは、考え難いことです。
6:11 そうして、イエスはパンを取り、感謝の祈りをささげてから、座っている人たちに分け与えられた。魚も同じようにして、彼らが望むだけ与えられた。
6:12 彼らが十分食べたとき、イエスは弟子たちに言われた。「一つも無駄にならないように、余ったパン切れを集めなさい。」
6:13 そこで彼らが集めると、大麦のパン五つを食べて余ったパン切れで、十二のかごがいっぱいになった。
イエス様は、彼らが望むだけ与えました。その上で、パン切れのあまりは、十二のかごいっぱいになりました。無駄にしないように集めたのです。
これは、比喩になっています。大麦のパンは、謙られたイエス様を表しています。
五つは、御心を行われたことを表しています。パンによって人を満たすことは、神の御心として行われたことです。そして、このパンを食べることが真の命であることが分かります。
十二は、神の支配を表しています。かごに無駄がないように集められたパンは、神のものとされたことを表していて、神に栄光が帰せられたことを表しています。パンによって人を満たす働きは、神の業としてイエス様が行われましたが、父に栄光が帰せられたのです。
6:14 人々はイエスがなさったしるしを見て、「まことにこの方こそ、世に来られるはずの預言者だ」と言った。
6:15 イエスは、人々がやって来て、自分を王にするために連れて行こうとしているのを知り、再びただ一人で山に退かれた。
人々は、イエス様が「世に来られるはずの預言者」だと言いました。
申命記
18:13 あなたは、あなたの神、主のもとで全き者でなければならない。
18:14 確かに、あなたが追い払おうとしているこれらの異邦の民は、卜者や占い師に聞き従ってきた。しかし、あなたの神、主はあなたがそうすることを許さない。
18:15 あなたの神、主はあなたのうちから、あなたの同胞の中から、私のような一人の預言者をあなたのために起こされる。あなたがたはその人に聞き従わなければならない。
18:16 これは、あなたがホレブでのあの集まりの日に、あなたの神、主に求めて、「私の神、主の御声は二度と聞きたくありません。この大きな火はもう見たくありません。私は死にたくありません」と言ったことによるものである。
18:17 それで主は私に言われた。「彼らの言ったことはもっともだ。
18:18 わたしは彼らの同胞のうちから、彼らのためにあなたのような一人の預言者を起こして、彼の口にわたしのことばを授ける。彼はわたしが命じることすべてを彼らに告げる。
18:19 わたしの名によって彼が告げる、わたしのことばに聞き従わない者があれば、わたしはその人に責任を問う。
18:20 ただし、預言者であっても、わたしが告げよと命じていないことを、不遜にもわたしの名によって告げたり、あるいは、ほかの神々の名によって告げたりする者がいるなら、その預言者は死ななければならない。」
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主が預言者を遣わす理由は、主の言葉を語らせるためですが、イスラエル民がホレブの山で、主の言葉を直接聞くことを拒んだからです。彼らは、死を恐れました。それで代わりに預言者を遣わすので、その声に聞き従うように命じました。それは、モーセのような預言者です。非常に力ある預言者です。そして、その人は、同胞の中から起こされます。すなわち人です。
人々がイエス様を見て、その預言者だと言ったのは、その力ある業によってでした。語られる言葉によったのではないのです。それとともに、イエス様をその預言者と考えた理由は、その預言者が同胞の中から起こされるという言葉から、人として来られることが示されていて、彼らが人としてのイエス様を見ていて、その方の本質を知ることがなかったことを表しています。
そのことは、彼らがイエス様を王にするために連れて行こうとしたことからも分かります。彼らの思いは、肉の満たしです。イエス様の与えるものとは、かけ離れています。肉を求めても滅びるのです。イエス様の与えるものは、いのちです。
6:16 夕方になって、弟子たちは湖畔に下りて行った。
6:17 そして、舟に乗り込み、カペナウムの方へと湖を渡って行った。すでにあたりは暗く、イエスはまだ彼らのところに来ておられなかった。
6:18 強風が吹いて湖は荒れ始めた。
6:19 そして、二十五ないし三十スタディオンほど漕ぎ出したころ、弟子たちは、イエスが湖の上を歩いて舟に近づいて来られるのを見て恐れた。
彼らが湖へ漕ぎ出した距離が記されています。ここにも比喩が含まれています。
二十五は、五を基本数として五で神の御心を行うことが強調されています。
三十は、五を基本数として六です。人となられて御心を行うことを表しています。
この業も、神の御心としてなされた業です。弟子たちの信仰を高みにまで引き上げるために連続して奇跡が行われました。しかし、弟子たちは、恐れました。
6:20 しかし、イエスは彼らに言われた。「わたしだ。恐れることはない。」
6:21 それで彼らは、イエスを喜んで舟に迎えた。すると、舟はすぐに目的地に着いた。
「わたしはある。」と言われ、ご自分が存在者であり、何も恐れる必要がないことを示されました。弟子たちに、ご自分が神であることをはっきりと示されました。
なお、ユダヤ人は、イエス様がこの言葉を語られたときは、石を投げつけようとしました。御自分が神であると宣言していることが分かったのです。
イエス様は、弟子の恐れに対して、御自分が何者であるかを示されました。それは、存在者としての神です。そのことは、偶像やこの世の不確実なものと対比されています。嵐や恐れの中で御自分がどのような者であるかを明確に示すことで、自分にとってイエス様がどのような方であるかを覚えさせています。弟子たちの信仰を高く引き上げようとしているのです。
イエス様を喜んで迎え入れたことで、船は、すぐに目的の地に着きました。「わたしはある」と言われる方を進んで受け入れたのです。もうこれ以上嵐は必要ありません。彼らは、達すべきところに達したのです。
・「わたしだ」→わたしはある。
6:22 その翌日、湖の向こう岸にとどまっていた群衆は、前にはそこに小舟が一艘しかなく、その舟にイエスは弟子たちと一緒には乗らずに、弟子たちが自分たちだけで立ち去ったことに気づいた。
6:23 すると、主が感謝をささげて人々がパンを食べた場所の近くに、ティベリアから小舟が数艘やって来た。
6:24 群衆は、イエスも弟子たちもそこにいないことを知ると、自分たちもそれらの小舟に乗り込んで、イエスを捜しにカペナウムに向かった。
6:25 そして、湖の反対側でイエスを見つけると、彼らはイエスに言った。「先生、いつここにおいでになったのですか。」
イエス様を追いかけた人たちの熱心は、彼らの「先生」との呼びかけとは裏腹に、教えを請うためではありませんでした。
6:26 イエスは彼らに答えられた。「まことに、まことに、あなたがたに言います。あなたがたがわたしを捜しているのは、しるしを見たからではなく、パンを食べて満腹したからです。
彼らが求めていたのは、お腹を満たすことです。パンを与えたのは「しるし」でした。イエス様が誰であるかを示すためのものです。彼らの思いは、この地上のことと、自分の欲を満たすことから離れることができませんでした。
6:27 なくなってしまう食べ物のためではなく、いつまでもなくならない、永遠のいのちに至る食べ物のために働きなさい。それは、人の子が与える食べ物です。この人の子に、神である父が証印を押されたのです。」
彼らは、本当に価値があるものに目を向けることができなかったのです。イエス様を知るならば、永遠の命を持つのです。この方を神と信じ、また、この方が命を捨てて自分を愛する方であることを知るならば、自分の全てを投げ出してでも従っていくのです。滅びから救われるのです。そればかりでなく、この地のもの、また、自分を満たす欲にとらわれていた者が、神様の言葉を守り人を愛し、神を愛する歩みができるのです。そして、御国において、報いとしての宝を受ける者となるのです。そのために働きなさいと言われました。
その食べ物については、次第に詳細が明らかにされますが、イエス様を信じ受け入れて、イエス様と一つになって生きることであるのです。そのような歩みに対して、永遠の命として御国の報いが与えられるのです。
「働きなさい」と言われました。何か奉仕することを直接言っているのではではありません。イエス様を信じた方がイエス様に仕えるならば、報いが与えられます。しかし、ここでは、そのような奉仕の仕事をしなさいと行っているのではありません。ユダヤ人は、その点について理解していました。働くとは、神の業をすることです。これは、広い意味を持ちますが、神様の心に適った歩みをすることです。人の肉の努力によるのではありません。まして、肉による行いでもありません。聖霊による歩みであり、信仰により、イエス様がその人のうちに住み、神の業をすることなのです。
6:28 すると、彼らはイエスに言った。「神のわざを行うためには、何をすべきでしょうか。」
ユダヤ人は、その方法について訪ねました。何をしたから神の業をすることができるのでしょうか。
6:29 イエスは答えられた。「神が遣わした者をあなたがたが信じること、それが神のわざです。」
それは、ごく単純なことでした。イエス様を信じることです。イエス様は、御自分のことを「神が遣わされた者」と言われました。信じるというのは、イエス様が神から遣わされた方であることを信じるのです。それは、既に父がイエス様に証印を押されたと話されたとおり、神様が遣わされたのです。ですから、決して人から出たのではありません。イエス様が言葉としるしによって証しされているように、神であることを信じるのです。このことを強調されたのは、ユダヤ人たちがイエス様を神と信じようとしないからです。彼らは、既にしるしを見たにも関わらず、信じようとしません。
6:30 それで、彼らはイエスに言った。「それでは、私たちが見てあなたを信じられるように、どんなしるしを行われるのですか。何をしてくださいますか。
6:31 私たちの先祖は、荒野でマナを食べました。『神は彼らに、食べ物として天からのパンを与えられた』と書いてあるとおりです。」
ユダヤ人の心がいよいよ明らかになります。彼らは、イエス様にしるしを求めたのです。しかも、彼らが引き合いに出したのは、モーセが荒野でパンを与えたことです。しかし、彼らは、パンを与えるという奇跡を既に見たのです。そのことに心を留めるべきでした。彼らが全くその奇跡を心に留めず、それによってイエス様が神であることを信じていなことがよく分かります。
しかも、彼らは、しるしとしてパンを与えることを要求しています。イエス様を王にしようとしたのもそうですが、彼らは、お腹を満たすパンを与え続けることを求めたのです。
6:32 それで、イエスは彼らに言われた。「まことに、まことに、あなたがたに言います。モーセがあなたがたに天からのパンを与えたのではありません。わたしの父が、あなたがたに天からのまことのパンを与えてくださるのです。
6:33 神のパンは、天から下って来て、世にいのちを与えるものなのです。」
イエス様は、モーセが与えたのは、天からのパンでないと言われました。それは、お腹を満たすだけでした。しかし、イエス様が与えるパンは、父が与えるものであり、それは、真のパンです。そして、命を与えます。
6:34 そこで、彼らはイエスに言った。「主よ、そのパンをいつも私たちにお与えください。」
ユダヤ人は、イエス様が与えるパンは、モーセが与えたものにまさることを知ったのです。命を与えると言われた言葉を理解はしていませんでした。彼らの肉体が養われる意味で解釈しています。そして、真のパンと言われたのに、口に入るパンだと思っていました。ですから、彼らは、これは良いと思ったはずです。イエス様のことを信じ、またイエス様が与えるものを理解して求めたのではないのです。
「いつも」お与えくださいと願いましたが、彼らは、今後も食べ続けられることを期待してそのことを言っているのです。
人が求めるものはこのようなものです。食物に代表されるように、今自分満たすものを求めるのです。永遠の祝福を求めようとはしません。
6:35 イエスは言われた。「わたしがいのちのパンです。わたしのもとに来る者は決して飢えることがなく、わたしを信じる者はどんなときにも、決して渇くことがありません。
イエス様が与えようとするものを明確に話されました。いのちのパンとは、イエス様御自身のことで、食べるとは、この方を信じることです。イエス様を信じた者は、決して飢えることがなく、決して渇かないのです。
飢えることがないだけでなく、渇くことがないことも示されました。これはもう食物の話ではなく、霊的な飢えと渇きを満たすことを言っているのです。イエス様の言われたことについて、ユダヤ人がお腹を満たすパンのことではないことを理解できるように、パンを食べても得られない渇くことがないことを示されたのです。
6:36 しかし、あなたがたに言ったように、あなたがたはわたしを見たのに信じません。
しかし、残念なことに、また、既に指摘されているように、ユダヤ人は、イエス様を見たのに信じないのです。ただ見ただけではなく、奇跡の業を見たのです。
6:37 父がわたしに与えてくださる者はみな、わたしのもとに来ます。そして、わたしのもとに来る者を、わたしは決して外に追い出したりはしません。
イエス様のもとに来てイエス様を信じる者は、父が与えた者たちです。
6:38 (なぜならば、)わたしが天から下って来たのは、自分の思いを行うためではなく、わたしを遣わされた方のみこころを行うためです。
6:39 わたしを遣わされた方のみこころは、わたしに与えてくださったすべての者を、わたしが一人も失うことなく、終わりの日によみがえらせることです。
その理由は、イエス様は、父の御心の実現のために天から下ってきたからです。その御心の実現のためなのです。その御心は父が与えた者を一人も失うことなく、終わりの日によみがえらせるためであるからです。父が大事に考えられて栄光を与えようとしておられるのに、それを放り出すようなことはしないということです。
6:40 (なぜならば)わたしの父のみこころは、子を見て信じる者がみな永遠のいのちを持ち、わたしがその人を終わりの日によみがえらせることなのです。」
そして、終わりの日のよみがえりは、御子を見て信じる者が永遠の命を持ち、その上で、終わりの日によみがえらされることを示されました。終わりの日によみがえることが永遠の命ではなく、御子を見て信じる者が永遠の命を持つのです。
永遠の命を持つというのは、肉体の変化ではなく、イエス様を信じる者が永遠の滅びから救われ、イエス様と一つになって歩むことで御心を行い、御国で報いを受ける者となることです。
終わりの日によみがえることは、神の御心を行うことの完全な完成状態となることです。朽ちない体となって、永遠の栄光を受け継ぎます。
・「見て」→解析を目的としてじっと見つめること。
6:41 ユダヤ人たちは、イエスが「わたしは天から下って来たパンです」と言われたので、イエスについて小声で文句を言い始めた。
6:42 彼らは言った。「あれは、ヨセフの子イエスではないか。私たちは父親と母親を知っている。どうして今、『わたしは天から下って来た』と言ったりするのか。」
ユダヤ人たちは、信じようとしない理由を探しているのです。天から下って来たと言われたことに躓きました。父も母も知っているのであり、人から生まれたものが神であるはずかないというのです。
神様が与えようとしている永遠の命について、全く考えようとしていません。彼らには、関心がないのです。
6:43 イエスは彼らに答えられた。「自分たちの間で小声で文句を言うのはやめなさい。
6:44 わたしを遣わされた父が引き寄せてくださらなければ、だれもわたしのもとに来ることはできません。わたしはその人を終わりの日によみがえらせます。
6:45 預言者たちの書に、『彼らはみな、神によって教えられる』と書かれています。父から聞いて学んだ者はみな、わたしのもとに来ます。
イエス様を信じることができるのは、父が引き寄せるからです。父は、聖書の言葉によって教え、イエス様のもとに導くように働かれます。そのような人は、イエス様を信じることができるのです。そして、終わりの日によみがえらされます。永遠の栄光に至らしめるのです。
預言者の書には、次のように記されています。
イザヤ
54:13 あなたの子たちはみな、主によって教えられ、あなたの子たちには豊かな平安がある。
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神がイスラエルから顔を隠したのは、彼らの罪のためです。彼らをもはや責めないのは、罪を購う「平和の→完全さの」契約を結ぶからです。平安という訳では、不適切です。神の前に完全であることは、遥かに重要なことです。
父によって教えられるとは、聖書の言葉によって教えられ、信じている人のことです。聖書によって教えられているならば、そこに記されている方を信じることができるのです。
・「平安」→損なわれることのない完全さ。
6:46 父を見た者はだれもいません。ただ神から出た者だけが、父を見たのです。
父を見たものは誰もいなことを示しました。これは、以前に父の証しとしての聖書のことばを取り上げたときにも言われたことです。父から聞いて学んだとは、聖書の言葉から学んだことです。
御子は、父から直接その声を聞いています。父を見たのです。ご自分が神であることを明確に語られました。
6:47 まことに、まことに、あなたがたに言います。信じる者は永遠のいのちを持っています。
信じている者は、永遠の命を持っています。
6:48 わたしはいのちのパンです。
イエス様は、御自分がいのちのパンであると語られ、永遠の命をもたらす方であることを示されました。すでに語られているように、パンを食べることは、イエス様を信じることであることが分かります。
ヨハネ
6:40 (なぜならば)わたしの父のみこころは、子を見て信じる者がみな永遠のいのちを持ち、わたしがその人を終わりの日によみがえらせることなのです。(再掲)
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6:49 あなたがたの先祖たちは荒野でマナを食べたが、死にました。
6:50 しかし、これは天から下って来たパンで、それを食べると死ぬことがありません。
イエス様が言われるパンは、口から入る物ではありません。それを食べた先祖は死んだのです。ユダヤ人たちが求めていた食物のことではないのです。イエス様については、天から下ってきたと言われ、パンではなくイエス様御自身であることをはっきりと言われました。
しかも、それを食べると死ぬことがないのです。それで、これが、彼らが腹を満たすことしか考えいなかったそのパンよりも、はるかに優れたものであることを示されました。
6:51 わたしは、天から下って来た生けるパンです。だれでもこのパンを食べるなら、永遠に生きます。そして、わたしが与えるパンは、世のいのちのための、わたしの肉です。」
もう一度、ご自分が天から下ってきたパンであること、そして、それを食べるならば、すなわち信じるならば、永遠に生きることを示されました。
さらに、パンについて、肉であると言われました。同じように命を与えると言われ、パンを肉と言い換えられました。これは、荒野でマナとともに与えられたうずらの肉のことを指しています。マナの比喩に隠れて目立たない比喩ですが、肉を食べるという比喩が記されています。これもイエス様の肉を食べると言われたことに対応しています。それは、イエス様を信じることです。
マナは、はじめ蜜の味がしたように、人に喜びをもたらす方としてのイエス様を表しており、後には、油の豊かな味がしたように聖霊によって歩まれたイエス様の比喩になっています。それを味わうことすなわち信じて同じように歩むことで経験できる永遠の命を表しています。そして、肉は、うずらとして与えられ、鳥の肉ですが、鳥は、神としてのイエス様を表しています。それは、イエス様を信じることでイエス様と同じ様に神のようになることの比喩です。
6:52 それで、ユダヤ人たちは、「この人は、どうやって自分の肉を、私たちに与えて食べさせることができるのか」と互いに激しい議論を始めた。
ユダヤ人たちには、「食べる」ということの意味がわかりませんでした。命を与える肉について、イエス様の体の肉を食べる方法について激しく議論しました。人の肉を食べることなどしてはならないことです。
6:53 イエスは彼らに言われた。「まことに、まことに、あなたがたに言います。人の子の肉を食べ、その血を飲まなければ、あなたがたのうちに、いのちはありません。
しかし、イエス様は、今度は、肉に加え血を飲まなければ命はないと言われました。血を飲むことは、律法で明確に禁じられています。ですから、これは、体の肉を食べ、また血を飲むことではないのです。彼らは、その比喩について考えなければならなかったのです。食べることについては、すでにイエス様は、信じることであることを明かされています。彼らは、それを心に留めていないし、信じようとしないのです。
彼らは、パンを口から食べることに固執していました。イエス様が言われたことが信じることであり、彼らの体を養うことではなく、永遠の命を与えることであることを理解しなかったのです。このように、人は、人間的なあるいは肉的な考えに囚われて、神の御心を正しく理解できないことがあるのです。
例えで語られたことを理解できないのは、彼らが信仰によって聞かないからです。それを自分のものにしようという思いがないのです。
また、御言葉の理解は、その人の霊的状態に依存します。神の言葉を信じて、従って歩むという経験をしていない者にとって、その御言葉は理解することができないのです。
6:54 わたしの肉を食べ、わたしの血を飲む者は、永遠のいのちを持っています。わたしは終わりの日にその人をよみがえらせます。
パンに代えて、肉と血について話されましたが、それが永遠の命をもたらします。パンが表しているものも肉と血が表しているものも、それを食べあるいは飲むことで永遠の命を持ちます。イエス様を信じて、イエス様と一つになって歩む者に与えられるのです。
イエス様を信じるとは、パンを食べ、肉や血を食べ、飲むことでもあり、それは、イエス様が自分のうちに内住されると信じることです。信じた者には、御霊が内住されますが、それは、たしかに永遠の命を持っていることの証しです。ここでは、それに加え、イエス様と一つになって歩むことを言っています。
そのことは、「終わりの日によみがえらせる」と言われたことと関係しています。よみがえりは、肉が一切ない状態に変えられることを意味しています。終わりの日のよみがえりは、そのことの完成なのです。イエス様と一つになって歩むことは、肉にはよらない、完全な歩みです。その歩み自体が命なのです。そのような歩みは、永遠の報いをもたらすものであり、永遠の命なのです。そして、よみがえりは、完全な状態になることなのです。これは、単に体がよみがえることだけではなく、イエス様のもたらす命が、その時に完成することを言っています。そのことは、信者にとっても望みです。肉の働きがあることで苦しんでいる者にとって、そこからの開放の時であるのです。それを望みとして肉を捨てて生きることができるのです。
6:55 わたしの肉はまことの食べ物、わたしの血はまことの飲み物なのです。
6:56 わたしの肉を食べ、わたしの血を飲む者は、わたしのうちにとどまり、わたしもその人のうちにとどまります。
6:57 生ける父がわたしを遣わし、わたしが父によって生きているように、わたしを食べる者も、わたしによって生きるのです。
肉を食べ、血を飲むことでもたらされることは、その人が主イエス様のうちにとどまることです。そのような人にイエス様がとどまられます。そのことは、次の聖句にも示されています。
ヨハネ
15:4 わたしにとどまりなさい。わたしもあなたがたの中にとどまります。枝がぶどうの木にとどまっていなければ、自分では実を結ぶことができないのと同じように、あなたがたもわたしにとどまっていなければ、実を結ぶことはできません。
15:5 わたしはぶどうの木、あなたがたは枝です。人がわたしにとどまり、わたしもその人にとどまっているなら、その人は多くの実を結びます。わたしを離れては、あなたがたは何もすることができないのです。
15:6 わたしにとどまっていなければ、その人は枝のように投げ捨てられて枯れます。人々がそれを集めて火に投げ込むので、燃えてしまいます。
15:6 わたしにとどまっていなければ、その人は枝のように投げ捨てられて枯れます。人々がそれを集めて火に投げ込むので、燃えてしまいます。
→「人々」は補足。父と御子が評価し裁きます。枝は、集められて枯れます。神は、火に投げ込みます。それは、燃えてしまいます。火は、神の評価で、それに耐えないものは、何も残らないのです。その人自身は、火の中を潜るようにして助かります。
コリント第一
3:15 だれかの建てた建物が焼ければ、その人は損害を受けますが、その人自身は火の中をくぐるようにして助かります。
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ヨハネ
15:7 あなたがたがわたしにとどまり、わたしのことばがあなたがたにとどまっているなら、何でも欲しいものを求めなさい。そうすれば、それはかなえられます。
15:8 あなたがたが多くの実を結び、わたしの弟子となることによって、わたしの父は栄光をお受けになります。
15:9 父がわたしを愛されたように、わたしもあなたがたを愛しました。わたしの愛にとどまりなさい。
15:10 わたしがわたしの父の戒めを守って、父の愛にとどまっているのと同じように、あなたがたもわたしの戒めを守るなら、わたしの愛にとどまっているのです。
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イエス様にとどまるとは、その愛にとどまることであり、その言葉にとどまることであるのです。そのような人のうちにイエス様がとどまられ、主の御業をなすのです。それで実を結ぶのです。
ヨハネの福音書では、イエス様によって生きると語られています。その人の行いは、イエス様によるのです。それで神の前に価値ある実を結ぶことができるのです。
生きることについては、イエス様が父によって遣わされ、父によって生きていることを示されました。その方については、「生ける父」と言われ、生きて存在し働かれる方であることを示されました。そのようにして、栄光を現される方であるのです。父によって、イエス様は生きておられたのです。すなわち、遣わされた目的を果たすための業をしておられたのです。
それと同じように、信者もその人のうちにあって主イエス様が御心を行うなうことが主イエス様にあって生きるということです。主イエス様の愛にとどまり、御心を行うことです。その御心とは、イエス様の戒めを守ることであり、その戒めとは、イエス様が弟子たちを愛されたように、互いに愛し合うことです。
6:58 これは天から下って来たパンです。先祖が食べて、なお死んだようなものではありません。このパンを食べる者は永遠に生きます。」
イエス様は、天から下ってきたパンですと、改めて語られましたが、その意味は、パンとして食べるが死んてしまうようなものではないということです。荒野で食べたマナは、そのようなものでした。しかし、イエス様を食べることすなわち、イエス様を信じ、一つになって生きることは、永遠の命をもたらします。
6:59 これが、イエスがカペナウムで教えられたとき、会堂で話されたことである。
6:60 これを聞いて、弟子たちのうちの多くの者が言った。「これはひどい話だ。だれが聞いていられるだろうか。」
6:61 しかしイエスは、弟子たちがこの話について、小声で文句を言っているのを知って、彼らに言われた。「わたしの話があなたがたをつまずかせるのか。
6:62 それなら、人の子がかつていたところに上るのを見たら、どうなるのか。
人は、理解できないことについて、自分で理解できる範囲で判断し、この例のように文句を言います。言葉の表面的な判断しかできないからです。これが比喩であること、その本当の意味を理解していないのです。
パンを食べることが信じることであることがわからないのです。では、イエス様が十字架にかかられ、よみがえられ、天に上ることをどうして信じることができるでしょうか。神が肉体において死ぬのです。それは、贖いのためでした。そのようなことを信じることは到底できないのです。
6:63 いのちを与えるのは御霊です。肉は何の益ももたらしません。わたしがあなたがたに話してきたことばは、霊であり、またいのちです。
命を与えるものが御霊であることは、御霊が内住され、御霊により歩みむことがいのちだからです。それはまた、私たちが主に留まり、主が私たちにとどまられて主によって歩むことであり、それも御霊によります。信仰によることです。
エペソ
3:16 どうか御父が、その栄光の豊かさにしたがって、内なる人に働く御霊により、力をもってあなたがたを強めてくださいますように。
3:17 信仰によって、あなたがたの心のうちにキリストを住まわせてくださいますように。そして、愛に根ざし、愛に基礎を置いているあなたがたが、
3:18 すべての聖徒たちとともに、その広さ、長さ、高さ、深さがどれほどであるかを理解する力を持つようになり、
3:19 人知をはるかに超えたキリストの愛を知ることができますように。そのようにして、神の満ちあふれる豊かさにまで、あなたがたが満たされますように。
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その働きは、父の全能の力によります。そして、御霊が内なる人に働きます。その御霊により、父の力強い働きにより、信仰によって、キリストがその人のうちに住まわれるのです。
イエス様を信じることで、御霊が内なる人に働きます。それが命をもたらすのです。なお、肉は、長くて百二十年ほど体を維持するだけです。いくらパンに満ち足りたとしても、体は失われ、体が長く生きたとしても、それ自体で何かが残ることはないのです。なんの益ももたらさないのです。
イエス様の話は、霊のことなのです。お腹を満たすことではないのです。また、命であり、体が生きることではないのです。
6:64 けれども、あなたがたの中に信じない者たちがいます。」信じない者たちがだれか、ご自分を裏切る者がだれか、イエスは初めから知っておられたのである。
このように、永遠の命を与えようと話をされているのに、それを信じない人たちがいたのです。ユダがご自分を裏切ることはご存じでした。
人は、聞いて良いとわかったことでも、自分のものにしようとはしないことがあるのです。また、害をもたらすとわかっていることでも、それを選び取るのです。しかし、その選んだ結果については、自分で刈り取ることになります。
6:65 そしてイエスは言われた。「ですから、わたしはあなたがたに、『父が与えてくださらないかぎり、だれもわたしのもとに来ることはできない』と言ったのです。」
6:66 こういうわけで、弟子たちのうちの多くの者が離れ去り、もはやイエスとともに歩もうとはしなくなった。
イエス様を信じることができるのは、父がそのようにされたからであるとわかります。ただし、自分が父によって選ばれているかどうかは、誰にもわからないことです。その人が信じたという結果だけがそれを証明するのであり、人の側から、選ばれているとかいないとかは、決して判断することできないのです。
多くの人がイエス様と共に歩もうとはしなくなりました。彼らは、イエス様の言葉を理解できなかったし、信じることができませんでした。はっきりしていることは、パンの満足をもっと求めても、それは、与えられないということは理解しました。パンを出してもらえないのであれば、もはやついていく価値はないと考えたのです。
人は、何に価値あるかで自分の行動を決定します。学校を選ぶのも、職を選ぶのも、また、結婚の相手を選ぶのも、自分の価値観によるのです。
6:67 それで、イエスは十二人に、「あなたがたも離れて行きたいのですか」と言われた。
イエス様は、弟子たちに尋ねました。弟子たちがどのように考えているからを問うたのです。
私がどのように考えるかが一番大切なのです。たとい多くの人が離れたとしても、私の問題なのです。
6:68 すると、シモン・ペテロが答えた。「主よ、私たちはだれのところに行けるでしょうか。あなたは、永遠のいのちのことばを持っておられます。
6:69 私たちは、あなたが神の聖者であると信じ、また知っています。」
ペテロは。イエス様を離れて誰とのころへも行けないと言いました。それは、イエス様が永遠の命の言葉を持っておられるからです。ペテロは、永遠の命を求めていました。
そして、イエス様が、「聖なる者」すなわち、「本性が主(神)のような者」であると信じたのです。人の姿を取られていますが本性は、神であるということです。それを信じたのです。
また、「知っています」と。知ってしまったということです。これは、単に信じただけでなく、すでにそのような方であると知っているということです。彼の経験を通して知ったのです。
6:70 イエスは彼らに答えられた。「わたしがあなたがた十二人を選んだのではありませんか。しかし、あなたがたのうちの一人は悪魔です。」
6:71 イエスはイスカリオテのシモンの子ユダのことを言われたのであった。このユダは十二人の一人であったが、イエスを裏切ろうとしていた。
弟子たちは、イエス様を信じ、知っていたのです。しかし、一人だけイエス様を裏切る者がいました。イエス様と共に行動していましたが、本性が神である方を信じなかったし、イエス様の公生涯の全てを共にいて見てきたのに、知ることがなかったのです。